彼、フイッシュ竹中の朝はいつも潤いで満たされている。勿論それは寝床が湿り10割であるからに外ならない。
重くて上げるのは些か億劫なそれを開けたら、彼の一日は幕を開ける。竹中はちらりと水面をうかがい、波紋一つない静かで冴えた水面であることを確認すると満足そうに笑みを作った。うん、今日も平和だ。竹中はこぽ、と空気を逃がし体の力を抜いて上へと浮き上がった。
水面ぎりぎりのところまで仰向けで浮かび上がり水中から空の様子を見つめるのが、竹中の最近出来た数少ない趣味であり日課となりつつある。眺める白んだ空の美しさに、いつも感嘆の息を漏らす。口から零れた吐息は今日も泡と化して水上へ立ち上った。水面に一つ波が出来た。見上げるそれもまた美しいと、微笑みながら尾鰭を揺らして水中深くに戻る。まだまだ朝早いようだ。人の雑踏も、声も、何も聞こえない。彼等の時間はまだ動いてはいないのだ。人間観察も彼の数少ない趣味の一つ。一日の時間をこれに費やしているといっても間違いではない。そんな趣味の対象となる人々がいないのだ。趣味が駄目だと何もすることがないなんて現状に、少しばかり自分の存在意義に疑問を持った。しかし意義なんて考え出したらキリがない。いるからいる。生きて、地に足付けて立っているというだけで、意義なのだ。そんなことを考えてみたところでたかだか数分の暇潰しにしかならない、無駄な事だと聡い竹中は判断してその思想を打ち消すように首を振った。
人はまだまだ起きない。起きないのなら、起きてくるまで何をしていよう。水中にぽっこりと隆起している、座るのにはお誂え向きの岩に腰掛けて足を組む。揺れる水草と竹中の次に大きな鯉の優雅な水泳をぼんやりと視界にいれつつ思案する。
あぁ、たまには誰もかもがねぐらに篭っている集落を歩き回るのも新鮮で良いかもしれない。そう過ぎってふと見上げる水面は白い。うん、きっとまだ皆寝ているね。竹中は思い付きから生まれた誰もいない早朝の集落に対する好奇心に駆り立てられ、鯉と目を合わせ合図した。
しばらく頼むよ。
鯉は優雅に泳ぐばかりだった。
池の岸に手をついたら、小石達に反抗された。構わず押し付け岸に上がると、小石は音もなく掌に食い込む。今日初めて外気に触れた濡れた肌に早朝独特のひんやりとしたそよ風が当たって、ふるりと肩を震わせた。そんな冷たい乾いた空気を、肺に力いっぱい吸い込んでみる。あぁ、やっぱり朝一番の空気の塊はいつ飲み下しても美味しい。膝を岸に付けて水から完全に離れると尾鰭をばたつかせた。ある程度の水気が取れたことを感じると、立ち上がり、じゃり、と砂に靴を押し付けた。地上から見上げる空もまた白く、その透き通る光に周りの木々、木の葉が煌めいていた。さて、森を抜けようか。竹中は見慣れた獣道に入り込んだ。
朝廷と呼ばれる国の政の中心地は森から若干遠く、歩いておおよそ15分。何せ都は広い。そんなところから忙しかろうにわざわざやってきてくれる友人が温かく感じるのは間違いではないはずだと、竹中は友人のトレードマークの青ジャージを思い浮かべた。太子には本当に世話になっている。
ふ、と鼻から息を漏らし周りの様子を探索してみると、やはりまだ眠りの中にいる者が大半のようであったが、民家から温かい香りがするところから、どうやら一家につき一人くらいは起きているようだ。家族のために早く起きて朝食の支度をする、その姿のなんと美しいことか。竹中は満足そうに微笑み、民家を通り過ぎていく。通り過ぎる民家ごとに少しずつ違う香りがするのもまた楽しくて、竹中は笑みを強めた。やはりこの国は良い所だ。
民家が終わると、急にと言ってもいいほど唐突に視界が開け、花畑が現れた。竹中は一瞬目を見張り、足を止める。この景色を見るのは何度目かになるが未だに心を奪われる。それほど美しい。
そうだ、少しこの花畑に足を踏み入れてみよう。花の匂いに包まれる朝なんて素敵じゃないか。
竹中は爪先を、好き勝手に咲き誇りそれぞれの色を持っている植物達に向けた。黄緑の茎の間を、花を踏まないように歩く。たまに尾鰭の先端に花びらが擦れてこそばゆい。服も乾いてきて温かくなって来た。花の香りが鼻腔を押し広げ自分の美しさを主張してきた。温かいとは、こんなに心が安らぐことだっただろうか。花とは。花畑とは。こんなにまで清々しいものであっただろうか。
朝とは、なんと発見の多い時間なのだろう。
竹中は満たされる思いで歩を進める。前方の花にばかり目が行く。満足しすぎて、あまりにも朝が楽しすぎて、茎や葉を踏み付けないようにという配慮は頭から溶けていた。
「ぎゃあっ!」
「うわっ!」
土を踏み締めた途端、酷く余裕のない叫びを聞いた。竹中は自分の常識では有り得なかったことの発生に反射的に踏み締めた足を上に引き、肩を揺らし、声を上げた。慌てて足を置いた所を凝視する。見ると、竹中の所為か土にまみれて汚れているが、それは白かった。痛そうにひくひくと痙攣している。それはまさしく人の手だった。そして、その手から続く手首は青色の衣に包まれていた。見慣れた青ジャージががばっ、と起き上がった。
「妹子ッ!何だお前わざとか!スライスしてフライパンで美味しそうなきつね色になるまで炒めるぞこのおーっ!」
「お、おはよう、太子。すまない」
「あ、れ」
苦笑混じりに挨拶する竹中と目を合わせて、聖徳太子は犯人に振り下ろそうとした拳をゆっくり下ろした。きょとん、と竹中を見つめる太子。
「竹中さん!?」
口を開き、目を見開き、太子は竹中の姿を認識して指を差した。驚いたらすぐに指差すのは太子の昔からの癖だ。竹中は未だに治らないんだな、と人に寄っては失礼だと憤慨する太子の癖に苦笑を強めた。
「太子も早起きだね」
「あぁ、実は妹子を待ってるんだ」
「こんなところでか?」
随分ロマンチックだな、と続けてみると太子は残念そうに笑った。
「実は昨日の夜、聖徳座という星座を作ろうと決めて、妹子と一緒にここに来たんだ」
「ほう」
話の情景がありありと思い浮かぶ。考えることが常に突飛な太子だから、きっとそれも思いつきだろう。一瞬嫌な顔を作ってみせる妹子も太子には甘いから、だからすぐに折れてここに来たに決まってる。竹中はほほえましい二人を思い、くすりと笑い、長い骨張った指を口元に添えた。太子は更に説明を深めていく。
「で、どれを聖徳座にするかここでずっと会議してたんだけど、気付いたら夜が明けちゃって。お腹空いたから今妹子に朝ご飯持って来させてるんだ。竹中さんもどう?」
太子の説明に、竹中はひょっとしたら先程の民家の一つには妹子がいたかもしれないと考えその様を想像したらひどく笑いが込み上げて来た。太子を思っておにぎりだかフランスパンだかを握るなり焼くなりして、調理を施すのだ。微笑むしかないだろうと竹中はくつくつと笑う自分を肯定した。
「それも良いかもしれないな。しかし私がいてはイナフに迷惑なんじゃないかな」
「え、何で?」
太子は目を丸くした。あぁ、彼は自分がいかにイナフに想われているか理解していないんだ。なんと贅沢な人なのだろうと竹中は太子を不思議そうに見つめ、ふと太子自身が制定した制度において最高位を表す紫色の冠を被った太子の頭に手を添え、そこから生える黒壇のような見事な黒髪に指を差し込み梳いた。
「ん、竹中さん?」
「太子、太子はイナフが好きか?」
「もちろん。あ、竹中さんも好きだぞ」
竹中の行為に戸惑いもせずはきはきと子供の様に質問に答える太子に無償の愛おしさを覚えた竹中はふわり、と太子に笑みを向け続ける。髪を梳く手は休めなかった。
「そうか、ありがとう。私も太子が好きだよ。でも私への好きとイナフへの好きはきっと違うはずだ」
「どんな風に?」
「太子が私に向けてくれる好きと、イナフに向けている好きには少し違いがないか?」
「違い?」
「それが私とイナフの決定的な違いだよ」
するりと髪から指を引き抜いて、ぽん、と優しく手を置いた。太子は竹中の言葉を咀嚼しようとしてか眉間に皺を寄せて俯いた。
「そうか……考えてみるよ」
「太子はいい子だ」
「楽しそうですね」
二人の背後、低く唸ったものがいた。
振り返ってみると、ひどく笑顔の妹子がバスケットを持ち立っていた。目の奥と手の震えは明らかに笑ってはいない。太子の腕が尋常ならざる妹子の雰囲気にびくりと後ずさったのを竹中は見逃さなかった。
「お邪魔しちゃ悪いので僕はこれで失礼します。太子、お疲れ様でした」
「い、妹子っ!?」
踵を返して妹子は元来たであろう道を進み、くるりと回る瞬間に竹中は妹子と目が合った。嫉妬か、あるいは羨望の目だった。若いな、と呟いた言葉は恐らく太子も妹子も聞いていないだろう。太子は憤慨する妹子を、訳が分からないながらも追わなきゃいけないと直感で思ったらしく竹中の横から去っていった。
だんだんと小さくなっていく二人の背中を見送って、竹中の目では確認できないほどになった頃に竹中はくるりと前を向いた。やはりここは良いところだ。春のような温かさに、竹中の頭はだんだん思考が途切れ途切れになっていく。
仰向けに寝転んで仰いだ空は澄み切った青空だった。
(さて、一眠り。)
移行前の携帯サイトでの一万打フリーだったものです。
2008.10.20
2012.01.30 加筆・修正。