仕事も覚えてきて後輩も出来てきた。社会人四年目の春である。
出会いの季節とはよく言ったもので、春は私に一つ出会いを与えてくれた。
少し砕けた服装の、栗色の髪をした青年だ。
毎日込み合っている通勤電車の中でふと見つけて以来、電車に乗るたびに彼を探してしまう。
彼の横顔が頭を掠めるたびに胸を揺さぶるのだ。
相手は男。しかし、それは紛れもなく恋だった。
三月の下旬に、同じ電車に乗り込んできたのを見つけた。明るい髪の色や少し余裕を持った服装、そして頭に乗っかっているごつごつしたワインレッドのヘッドフォンが少しおっかなく見えたものの、それらを帳消しにするくらい私にとって整った顔立ちをしていた。
しかし美男というわけではない。どちらかといえばあっさりした平凡な顔だ。
今時の青少年みたく生意気そうな、或いは眠たそうな目つきをしている。
しかし平均より薄いであろう色素や、横顔の柔らかさ。人によっては彼を「女顔」であると捉える人もいるだろう。丸顔の頬から顎にかけての滑らかな曲線。しかしそこから繋がる首筋は間違いなく成人男性に近いものだった。それの中性的とも言い表しがたいアンバランスさが妙な色気を漂わせていて、生唾を飲んだこともある。
生意気そうな伏されがちの瞳も、見開けばさぞ美しいのだろう。
言葉を交わしたことはない。名前もしらない。勿論満足はしていない。どんな声をしているのだろうと、考えることもしばしばある。何か口実を作って話しかけようにも、彼の耳にはいつも大きなヘッドフォンがかかっていて外界を遮断していた。彼は私よりもヘッドフォンの言葉を聞くのだ。情けなくも私は、機械に負けている。
そういう気負いを感じながら、私は毎日先に電車を下りていってしまう彼を見送っている毎日だった。それで良いと思っていた。しかし見ているだけで良いなんて、欲張りの私が思うはずがないのだ。
彼と話をしてみたい。どんな奴なのか知りたい。顔が好みだからなんて理由で好きだなんて言いたくない。
話をして、彼を知って、それでも好きでいられる自信が根拠もなしにあった。
欲望が頭をもたげ、彼を思う回数と時間が増えた。
名前もしらない男の子を好みの人格にして、そして脳内で自分の都合の良いように、しかしぎこちなく行動する。滑らかに動くのは、何度もみている扉から出入りする動作だけだ。後の動きは大体カクカクで、2割ほど美化されているはずなのに味気ない。勿論満足はしない。
やっていることは好きなアイドルに対するそれと変わらないだろう。しかし、我に返ったときのやりきれなさはアイドルを相手に選ぶよりも大きい。現実を見ると、満たされたはずの欲が何倍にも増して戻ってくるのだ。切ないことこの上ない。
(行動すれば良いのに。性に合わないようなことをして)
妄想の後に自分を責めた。人も多くないとは言え、こんなところでだらしがない。
直後、電車内のアナウンスが耳に飛び込んだ。席から見える電光板を確認すると、いつも彼が朝に降りていく駅だった。
そこには、それなりに名の響いた大学があった。彼はその大学の学生なのだろう。
大学生と社会人。その差は大きい。現実に溜息を一つついて、側に据えられている手すりに頭をつけながら向かいの窓の向こうを眺めた。
会社を出たときにはほんの少しの黒を混ぜた程度の青だった空が、すっかり紺色。それだけ長い時間妄想に耽っていたのかと嫌悪しかけたが、腕時計を見るとそうでもないらしい。単純に空の様変わりが早いのだろう。
まもなく、という声で減速していく電車。
一つの線に見えた街の明かりが、独立して灯っているように見えるまでになった。見慣れた景色と言えばその通りだ。この画を見るのも四年目なのだから。
ゆっくり扉が開いた。
この駅は大きな乗り換えのポイントであるので大体の人たちがここから降りていく。
そしてここに乗り込む人は、この微妙な時間にはあまりいない。いても10人いないくらいだ。ばらばらに、しかし扉へと一直線に、車内から出て行こうとする無数の脚を見送った。
そして今度は入ってくる脚を迎える。若い女の子の脚。私と同じように革靴を履いた足。「あし」を眺めては、行き先を見届けずに次の「あし」を迎え入れる。
最後に入ってきた足は、健康的に引き締まっていて、若々しい足だった。最後であることもあり、私はそれを見送ろうと目線を動かす。それは私の座っている場所の左斜め向かいに腰を下ろした。
電車の扉は閉まり、音を立てて発進した。
暇つぶしに飽きた私は自分の足元に目を落とし、疲れた脳を一度休ませた。目を閉じると眠気が襲ってくる。気分転換の為の行為だったのだけれど、どうも変わりそうもないのでやめることにした。眠たいままの目つきで顔を上げて、向かいの窓の景色を見る。電車の速度が上がったため、また街灯が線上に流れていた。その窓の横。何かに埋まった赤いものが視界の焦点の外でちらついた。それが埋もれるのは栗色の中だ。
期待で眠気が飛んだ。
急いで目の焦点をあわせると、生意気そうな顔した青年が座っていた。まさしく、妄想の中の彼だった。
「あ……」
初めて訪れた状況に思わず声を上げてしまったものの、あのヘッドフォンに阻まれて聞こえていないようだった。本人は携帯電話とヘッドフォンに夢中でこちらに気付いていないようだったので、まじまじと観察することにした。思えば、正面からの彼をこんなにも見つめるのは初めてだった。横顔でも分かった頬と顎のラインはやはり丸い。目も生意気、と表すほどではない。ただ若者にありがちな興味のなさそうな淡白な視線だった。
はあ、と思わず感嘆。
好みだった。
(……やっぱりいいなあ……)
呆けながら、暫く彼を見続けていた。
一駅通り過ぎるごとに、人の数も減っていった。辺りに人は少ない。
少しの間に色んな発見をした。丸顔に似合わず手は男らしくかっこいいとか、つんと引き結んだ口元を緩めると案外かわいい顔をしている、とか。こんなにじろじろ見られていても気付かれないのだから、ヘッドフォンと携帯は偉大だ。是非とも彼と話がしてみたいという私にとって邪魔者以外の何者でもないのだけれど今回は感謝した。とにかく上手く観察が出来て、少なくとも私の妄想の補間ぐらいは出来た。
あとは声。表情。彼を作るそれらを知りたい。妄想の足しに程度でも構わなかった。人の少ない今なら、頑張れる。
「…………」
しかし、きっかけが掴めない。彼の身辺を探してみるけれど、見知らぬ社会人が唐突に話しかけられるような話題はみつからない。ナンパでも装ってみようかと血迷ったけれど、経験がないのでどんな風に行けば良いかわからない。
(相手も男だし、気持ち悪がられるだろうしなあ……)
まごついていると、ふとアナウンスが次の停車場を告げた。彼が朝に乗ってくる駅だった。彼は耳を塞がれたまま振り向いて窓の向こうを確かめた。そして電光板を確認。彼は携帯を閉じて大きい鞄を漁り始めた。大方定期券を探しているのだろう。
出て行ってしまう。勿論察した。これ以降、こんな機会はないかもしれない。
きゅう、と胸がつまり、ひたすら彼を見つめた。
行かないでくれと、好きなんだと。一言伝えられたら。ひょっとしたらこれは私に与えられたチャンスなのかもしれない。
(……いや、試練か)
どちらにせよ、自分は試されているのだ。今ここで彼に声を掛ける度胸を試されているのだ。
彼が座席から腰を浮かせた。
「あ……っ」
まだ電車はとまらない。ホームが私の座っている側にあるので、こちらに近づいてくる。彼が私の側の手すりに掴まっている。その距離は僅か。1メートルもない。そういえば一度だけ、肩と肩がぶつかったことがある。それ以来の至近距離だ。チャンスとの相乗効果でそのとき以上に脈拍が早い。胸ではなく頭から響いてくる。
今、声を掛けてみれば気付いてくれるだろうか。
まもなく。
そう抑揚のないアナウンスに胸が一層飛び跳ねた。
私の席の側が開く、と分かりきったことを教えてくれる。
減速していくのが体にかかる圧力で分かる。体が揺れる。彼の体も揺れる。目線はお互い定まっている。彼は外。私は彼。ぴたりと車体が定位置に収まり、ホームの雑踏が聞こえてくる気がした。やけに扉が開くのが遅い。私を待ってくれているのだろうか。しかし声を掛けようにも、彼にお似合いの赤いヘッドフォンが威圧的にこちらを見ていた。こいつに話しかけるなと言われているようで、喉が乾いて塞がっていく。一つ大きな声を出してしまえば治る程度なのにそれが大きな枷になっている。
気付いた時には扉が開いていた。
まるで彼を逃がすようにぼっかり開いたそれへと、真新しいスニーカーに包まれた足が一歩踏み出した。
「あ、ちょ……」
辛うじてひねり出した声は、予想以上に頼りなく聞こえた。彼の耳には届いていないだろう。
一歩ずつ外へと向かう足。私に気付きもしない目や耳。
私を見てほしい。私に声を聞かせて欲しい。私のために立ち止まって欲しい。
今までの妄想が頭の中から噴出して、何故か辛くて顔を顰めた。
行かないでほしい。私を見てほしい。言いたいことや知りたいことがたくさんあるのだ。
足と連動して規則的に動く彼の腕。腕が後ろに引かれたとき、やり切れなさが私の妄想を越えた。思いのたけが膨らんだ私の手が咄嗟に彼の腕を掴んだ。
彼は振り向き、私の顔を驚きに満ちた表情で捉えた。私のものよりも綺麗な瞳が二つ、瞼から離れて私を見ていた。やっぱり綺麗だと頭の片隅で思った。彼は困惑の表情で、空いている方の手で赤いヘッドフォンを下ろした。さらりと髪を梳くようにヘッドフォンは彼の首元へと落ちていった。耳についていた時よりも威圧感は消えていた。代わりに彼の眼差しからとげとげしいものを感じる。
「……何か?」
恐る恐る発された声は思いのほか低い。でも汚くない。顔にそぐわないと思うのは妄想のし過ぎに違いない。
とげとげしい顔を見せる彼は、どうやら妄想よりも毒が強い人物らしい。(知らない男に手を掴まれているんだからこの反応は当たり前か。)
しかしそれでも気持ちが萎えることはない。
とにかく、彼が私を見てくれたのだ。先ほどまで沸々していた気持ちが心の中に巻き取られていく。外へ向けていた熱が心に篭もる。その感覚が今の私には酷く気持ちが悪い。勢いが殺がれた今、どうしたら良いのかわからない。
でも、とにかく彼がこちらを向いてくれたことが嬉しくて、意気が抑えられた分心の篭もった言葉が伝えられそうな気がした。
瞬間、頭の中でスパークが起きた。爆発した感情は、目が潤うことで表れた。
「あの……」
「はい?」
気持ちの整理がつかないまま、消え入りそうな涙声で好きですと呟いた。
彼の腕は私を振り切らない。あまりのことに動けないのかもしれない。
私も感情の制御がつかず、怖くて手も足も動かせない。
怖くて、俯いたまま自分の膝しか見ていられない。
扉が閉まる合図が聞こえた。彼は出て行く。
けれど、手が動かない。
「…………」
「……離してください」
彼の言葉はひどく落ち着いていて、まるで諭されているようだった。不思議と手が動き、すんなり引く。呆気なさと自分の甘さから、嫌悪が目元に滲んだ。彼の動く気配がある。扉は私を嘲るように、音を立てて閉まった。
「…………」溜めた涙が限界を迎えていた。揺れる涙を感じる。
「……泣くのやめてください」
隣から声が聞こえる。
ずっと聞きたかった、大好きな声だった。
降りたはずの人の声が聞こえた。
「……話くらいなら、聞いてあげてもいいですよ」
私は隣に座る彼を見て、一筋涙を流した。
電車は発進。既に次の駅を目指している。
・ヘッドフォンにナンパ(←)を阻まれる太子。
・泣いてる人はほっとけない妹子。
現代パロおいしいですはあはあ(^q^)
2010.04.03
2012.01.30