* * * * *

来ないな。まだかな。
そうぼやき続けて一体何時間経っただろうか。開け放たれた障子。その向こうに見える曇天の所為で我が家の自慢の庭は残念な様相である。
それを何の気なしに眺めながら、だらしなく顎を卓に肘を突いた手の上に乗せ、口先でぼやき続ける私。もう随分の時間この体勢でいる。四十路を越えた男が何と情けないことか。

今日家に呼んだのはあの弟子。
旅も終わったことだし折角だから、今度二人でお茶でも啜ってゆっくりしようよ。と私が誘ったら、文句を垂れながらも彼から日時を指定してきた。そして今日がその日。ちなみに時刻はとうに過ぎている。自分で指定しておいて、来ない気でいるのだろうか。全く持って彼はわからない。曽良君は一体どういうつもりなのだろう。
今日のことは勿論だけれど、更に言えば私についてもだ。私の事を、師匠として、人として、どう思っているのかとか。
彼とは旅の間じゅう連日のように枕を並べて寝ていたけれど、実は深く話したことはない。どうも、曽良君と腹を割って話をすることに抵抗があったのだ。
曽良君は嫌がりそうだったし、長い旅に支障が出ると行けないと思って自粛していた。お互い酒を飲んでしまえば些か解放的にもなりはするのだが、はしゃぐほどでもない。それに(何度か絶交させられたこともあったが)旅は成立していたし、特に必要な事がらでもないと、思っていたのだ。

しかし、その。
何と言うか。

理屈が現在の私の心情に行き着いた途端、瞬間に火照る頬。
若者だった時代を思い出すような胸のざわめき。どうしようもない部分は放っておいて、とりあえず両頬に手を当てて火照りを冷まそうとしてみた。表面だけ、冷たくなる。内側と、肝心な胸の方は未だ治まりを知らない。

(……どうかしている)

何度でも言うけれど、私は四十路を越えた立派な大人。しかも男だ。
……そして曽良君も、間違いなく男。
なのに、なあ。

(好き、だなんて)

どこからこんな感覚が襲ってくるのかなど見当もつかない。しかし経過はどうであれ、未熟な心が彼の全てを知りたいと喚くのだ。つまらない独占欲であるのは言うまでもない。頭では分かっているのだ。でも、駄目なのだ。
そして、彼は来ない。
一つ溜息をついて見上げた空は曇天。先回見たそれと何ら変わりはない。つまんない、とひとりごちて両頬の手で顔全体を覆って外界を遮断した。どうせ彼は来ないのだろう。だってそういう奴だ。非道で外道で嫌な奴だ。だから、だからきっと来ないのだ。

そう考えると恥ずかしさが一層増して、頬の紅潮が制止を無視する。熱くなる頬も何もかも振り切って、もういっそすぐそこの池にでも飛び込みたい気持ちに駆られた。ああ、でもこの空の色じゃ寒々しい。
せめて空が爽やかに澄んでいてくれたなら、相乗効果で気持ちも幾分かは晴れやかだったろうに。どうして空まで重たくなってしまうのか。

「……空気読め、馬鹿空」

ぽつりと呟いた言葉は、意外に耳を刺激した。不思議と清々する気持ちになるのは何故なのだろう。刺激は脳まで行き届き、瞬間にやりと奇妙な笑いを浮かべる。気持ち悪いと自覚があったからすぐに止めた。止めるついでに目を覆っていた手も外して、変わらぬ曇りを見つめた。停滞、という言葉がぴったりのそれに呆れて溜息を一つ。灰色の重たい空は要らない。私がそれなりに若ければこんな空色など吹き飛ばしてやるのに。いや、それは流石に言い過ぎた。

そんなことより、曽良君はまだかな。
本当に来ないなんて冗談はやめてよ。



君色不足

(春は遠く。或いは来ず。)


* * * * *

・旅が終わって、改めて曽良君が好きな自分に気が付いてどうかしていると思いつつもその気持ちが嬉しい芭蕉さん。
・若者になったみたいだと喜ぶ反面、曽良君の来ない現実をそれなりに受け止めている自分は年相応なのだろうなあ、とどこか冷めた気持ちで自分を見る芭蕉さん。
・でもやっぱり恋しくて、でも曽良君来ないし寂しくてたまらない、ていう芭蕉さん。
2010.03.07
2012.01.30 加筆・修正。