足元がどこかおぼつかない。それを悟れるような余裕が頭の中にはあるのだが、しかし体のほうはそうもいかない。覚めた自分とおぼろげな自分。両者が居座って体と頭で別々の動きをしている。
覚めている自分は理解していた。ここは夢の中なのだと。
こんな経験は以前にも何度かある。自分は夢の中にいるのだと、根拠もなく理解できるという不思議な感覚。覚醒している方の人格はいつものことだと考えて、正直に体についていく。どうせ自分の言うことなど聴きやしないのだと、心の中で溜息をついた。
一方、体は勝手に歩きつづけた。履き古した足袋を身につけた足は冷ややかな廊下を摺り足で行く。その廊下は薄暗い中で、一見真新しいそれのように光を受けてはいるけれど、隅のほうに米粒大の埃が疎らながらに落ちている。どうやら家人は細かなことには気がつかない性分らしい。河合曽良の脳は、この光景を覚えていた。
ああ、此処は。
薄い唇だけが動いた。声は出ない。続きは心で呟かれた。
(此処は芭蕉庵の廊下じゃないか)
見覚えがあるなどという程度で片付けてはいけない。自分は此処に通い詰めているのだから。床を音もなく進む自分の足は現実味がない。這うように、しかしのんびりと流れていくように動かされる足袋は床の冷たさをおおむね遮断しており、それもまた現実味を失わせていた。
(まあ、夢の中なのだけれど)
続く足がふと止まった。随分と歩いていた気がした。
目の前には見慣れた襖。周りを見ると、知っている風景。曽良の脳は冷静さを引っ込めて、その代わりに危険信号を出し始めた。だって其処は、普段唯一、入るのを自制している場所。こんな薄暗い時間帯には特にだ。
いけない。そこに入ってはいけない。
松尾芭蕉の寝床へと続く襖であった。
根拠があるわけではないが、おそらく芭蕉庵の主人はこの襖の向こうで布団を敷いて眠っている。己の足は未だに言うことを聞かない。ついに腕やそこから続く白い指も、自分の意識とは関係なく襖へと伸びて取っ手に手をかけた。制御の出来ない肉体が煩わしくて、曽良は憎憎しげに舌を鳴らした。しかしそれが体へと連動することはない。敷居に蝋でも塗ったのか、軽い力で勢い良く開く。襖は音もなく曽良の一人など簡単に受け入れる余裕を作り、そこで大人しくなる。
足袋を履いた足が敷居を跨いだ。薄暗い主人の部屋は、あらゆるものが乱雑に置かれていた。いつかに食べていた菓子の小さな包装紙が曽良の足袋の下敷きになる。部屋の中央には中身を感じさせる膨らみ。白い布団が曽良の目に飛び込んできた。よくよく見ると掛布も敷布もくたくたで、自分が先日干したばかりなのにと曽良は呆れながら進んでいく。枕元に置かれた俳句を書き留めるノート(どうせ大したことは書いていやしない)の隣に立つ。
障子の向こうから、薄日が差した。もう日が昇るのだと悟った。そんな時刻に、自分は此処に何をしにきた?
寒さにかこつけて起こしに来るというあからさまな優しさなど曽良は見せない。邪な曽良には、邪な想像しか出来なかった。
朝日が昇り始めるというのに夜這いかと、自分自身に呆れた。同時に、少し胸の鼓動が高まって。
(……体が言うことを聴かないのなら、仕方がない)
それに、これは夢なのだ。自分の夢くらい、制御しなくても。
曽良の心に従うように、体は畳に膝をついた。ぐっと近づく師匠の頭に曽良は釘付けになっていた。更に、お辞儀するように頭を下げた。芭蕉の頭が乗る枕に、自身の前髪がかかった。鼻が芭蕉の髪を掠めてこそばゆい。すう、と鼻から息を吸い込むと、芭蕉のにおいがした。どこか安心させてくれる、例えようのないにおいだった。
(においすらも記憶しているなんて)
自分の夢には自分の持っている情報しか出てこない。細かく再現された嗅覚に曽良は驚きを隠せない。
はあ、と一息漏らしたことで、ようやく自分の体と心が連動しはじめていることに気がついた。やっと戻ってきた自分の体は、持て余してしまいそうなほどに軽かった。
瞬間、布団の中の師匠をこの手で抱きたいという衝動が、自分を突き動かして。
少々乱暴気味に布団をめくり芭蕉をそのまま強く抱きしめた。現実とそっくりそのままの、芭蕉の薄い体だった。
(芭蕉さん……)
曽良は幸せそうに目を閉じた。
「痛い、痛い痛い!」
途端に素っ頓狂な声が上がり目を見開いた。
首元で薄い色の髪が明るい光に軽く照らされてじたばたと蠢いていた。ぎょっとして抱きしめていたその手を緩めると、中にいたそれは跳ね上がるように上体を起こした。それは紛れもなく曽良の師匠だった。
「君はどうしてそう力が強いの!?」
「え、ば、しょうさん?」
「そうだよ芭蕉だよ!寝ぼけてんじゃないぞこのバカ弟子!」
芭蕉はおどけたいつもの調子で曽良を罵る。はだけた胸元は痩せていて、明るさも相俟って貧相極まりなく見える。よくよく見てみると、自分もまた着衣が乱れていた。
明るい部屋にいつもの師匠。程なくして自分が夢から覚めたのだと悟った。
昨日、夜這いついでに添い寝して、芭蕉さんが眠って、それから。それから。次々と現実の情報が舞い込む頭を一つ振った。前髪がさらりと定位置についた。時間が経つにつれて覚醒する頭とともに、どんどん芭蕉の口から飛び出す罵倒の羅列に腹が立って、まだ手の届く距離にいる芭蕉の手首を掴んで引き寄せた。うわ、とよろめいて、芭蕉と同じく着物のはだけた曽良の胸へ飛び込んでくる芭蕉。
鎖骨辺りに顔を埋めさせ、背中に腕を回して、ぎゅう、と締め付けた。言葉にならない声を出して芭蕉は叫んだ。数十秒したら流石にうるさいので手を放す。芭蕉は初めと同じように飛び起きて、曽良から離れる。
「まったく、どうして正月早々こんな目にあわなきゃならないんだか……」
芭蕉が貧相な腰や背中をさすりながらぼやくのを聞き流しながら着物の袂を整える。言葉の中にあれ、と引っかかりを感じて芭蕉に向き直った。
「芭蕉さん」
「んー?」
「あけましておめでとうございます」
「ああ、今年もよろしく。……それにしても、暖かい正月だなあ。去年は雪が降るほど寒かったのにねえ」
障子の明るさに目を向けた芭蕉を追って、曽良も障子を見やった。
ぽかぽかと陽気溢れる光を障子が受け止めていた。暖冬という言葉だけで表現しきるのはもったいないほどよい日和だった。
「来年の正月もこのくらい暖かいといいねえ」
「そうですね」
素っ気ないなあ、と芭蕉は笑った。
曽良は障子の向こうよりも芭蕉に温かな何かを感じて、気持ちがよくて目を細めた。
時は元禄七年。元旦のことである。
(正月はやってきたので、)
(あとどれくらいあなたといられるか数えましょうか。)
・元禄七年……史実における松尾芭蕉の没年。
2009.01.05
2012.01.30 加筆・修正。