※つきあってる。
* * * * *
からん、と冷たい音が響いたところで自分が上の空だったことに気づいた。
目の前には大口のシャンパングラスみたいな入れ物に入ったペリエ・モントと、私の頼んだアイスコーヒーが入った簡素な意匠のグラスとが、いやらしくも水滴まみれで置いてあった。
隣の窓から差し込まれる黄色みがかった光がグラスを照らしていた。光がグラスに差し込んで乱反射しているようにところどころがきらめいていて、きれいだ、と咄嗟に零した。
そのペリエ・モントを注文した男が不意に鼻先をこちらに向けた。
向かいに座る彼、ルノワール君は訝しげに私を眺めて、また通路側に傾注した。
目先にはタイトな黒スカートに身を包んだ細身な女がいる。
暗い色の瞳に睫毛もたっぷり、陶器のような白い肌。
この店の看板娘はルノワール君にはもったいないくらい扇情的で、美しい。
「声をかけないのか」
「まだ、だめだ」
ずっとこの調子で、ただ熱のこもった目で彼女を見ている。
一度目の注文でも私が呼んで、注文してやった。
僕だっていい子のひとりやふたり。
そうルノワール君が豪語したことがはじまりだった。
女っ気がないくせに人の恋愛には首突っ込んで、(特に私に対しては)馬鹿にするだけ馬鹿にする。
そんな彼に私が囃してやったのだ。
女を大して知らない奴ほどよく他人の色事に口を出したがる。と。
一拍置いたあとに、先の台詞を私にぶつけた。
やれやれ、と言ったところか。
「彼女がそのいい子なんだろう、早く声をかけたらどうだ」
虚勢であることはとうに見抜いていた。それを煽ることがちょっとしたストレス発散なのだ。
人の恋愛事情を探りたがる若輩者にはそのくらいのお灸は必要だろう。
「ほら、どうしたんだ。早く私に紹介して見せろ」
「…………」
「可愛い子じゃないか。君の年にしたら少し若すぎるくらいだが、犯罪的とまではいかない」
「…………」
時折困ったように視線を彼女から外しながら、ペリエ・モントに刺さったストローを弄くっている。
彼女とそんな関係でもないのだろう。あったとしても一方通行なファン感情程度だろう。道で聞いたヌードモデルを頼んだとか言うのは嘘ではなさそうだったが。
なんて思って、少しほっとした自分がいる。
だから心置きなくいじめてやれるのだ。
そろそろ17時。カフェは酒場に変わり、子供の時間は終わる。
つまり彼女のシフトはおしまいだ。
「もう時間だぞ。良いのか」
良いも悪いもあるはずないのだ。ルノワール君は追いつめられたような顔で私を見た。
そろそろ許してやろうかとアイスコーヒーを一口含んで喉を潤した。からん、とグラスと氷が寄り添う音がした。
湿ったため息をついてルノワール君の注意を引いてやった。
「もういいぞ、ルノワール君」
「……何が?」
「あの子に特別な思いなんてないだろ、わかってるよ」
ルノワール君は眉の間に皺を作った。悔しさからか目に力が滲んでいる。そのまま彼が目を落としたペリエ・モントは、薄いレモン色とシロップの色味がはっきりした層を作っていた。かき混ぜることもせずに私の声に耳を傾けるルノワール君が叱られた犬のように見えた。「じゃあ、何で」
ルノワール君が絞り出した言葉は私との間に落ちている。聞こうとしてなければ聞こえなかったろう。
「これでわかったろ、触れて欲しくないことは誰しもいくつかあるもんだって。君に心の内を探られて、私がどんな気持ちだったか想像できるか」
ほかでもない君に、とは言わないでおいた。
わざわざヒントをくれてやろうなんて思っていない。
ルノワール君は私の目を見ることはできないらしく、うつむき気味にグラスを見つめていた。ただ口を動かしたのは見えた。
人の気も知らないで。と、見えた。
「何と言った」聞いてやった。これも意趣返しのつもりだった。
自棄になっているだけだと思った。意味のない暴言だと思った。
だから口を噤むと思ったのだ。
しかしルノワール君は私を見据えてはっきり言った。
「人の気も知らないで」
目に滲んだ力が更に強まっていた。
「何のことを言っているんだ」
「お前は何もわかっていないって言ってるんだ」
「だから、何のことだ」
「僕が何故見栄を張ったと思う?」
「煽られた勢いじゃないのか。聞かれる側になって焦ったんだ」
「じゃあ僕が何故お前のことを聞き出そうとしたのかわかるか」
一瞬考えてみた。
「面白がりたかったんじゃないのか」
答えは同じだ。
「違う」
「何が違うんだ」
「『それだけ言うならルノワール君、君には当然心に決めた女性がいるのだろうね』」
数時間前の私の台詞だった。その時の映像が頭に浮かんだ。
この男の引きつり顔。
彼の汗ばんだ首もと。
彼の後ろのカップル。
足下の雀。鳩。石畳。
視線が動いたのは私の方じゃないか。
『いなきゃこれだけのこと言っちゃいけないのか』
ルノワール君は確か、そう言った。
『いけないことはない。ただ女を大して知らない奴ほどよく他人の色事に口を出したがる傾向があるから、どうなんだと』
馬鹿にした私の言葉。
短絡的なルノワール君なら、当然売り言葉に買い言葉で、見栄を張ると思った。
少なくともそこは見事に的中したのだ。
「想像できるか。お前に、パートナーの存在を勘ぐられたときの僕の気持ちを想像できるか」
ほかでもない、が「お前」の前についた気がした。
だが私も黙っていられない。
「そもそも貴様が私に女がいるか疑ったところが始まりじゃないか」
「最近どこにも一緒に行ってくれなかったから」
「展覧会に向けて絵を描かなきゃならなかったのは、お前だって同じだろう。だからって女を疑ったのか」
「僕はこの通り天の邪鬼で女々しくて、面倒なところもあるから、同じ女々しいなら女の子の方に言ってもおかしくないなと思った」
それとなく聞いたつもりだったんだ。と最後に零したのを聞いて、少しもそれとなく無いだろと思わず笑ってしまった。
すぐに笑顔を引っ込めた。
「馬鹿馬鹿しい発想だ」
「……僕たちの間に、はっきりした告白とか、そんなの無かったから」
お前に好きって言われたことがないから。
自分とそう年の変わらない男が、若い女みたいなことを言っている。
なんて気持ちの悪い……と思わなければいけないのだろう。
「……くだらない」
「僕だってそう思ったさ」
「思ったけど、というつもりか」
私は大仰にため息をついた。
「……すっかり夜だな」
「…………」
「飲み直しに行くぞ。酒が必要だ」
「……どこに」
「私の家だ」
いいな、と念を押して伝票を掴んだ。立ち上がった側で、しばし呆然としてからペリエ・モントをのどに流し込むルノワール君が見える。
ああ、コーヒーは飲んでいかなきゃあな。
手にとったグラスの中で、小さくなった氷が小さく音を立てた。
会計を済ませた後、互いに同じ動作で口の端を拭った。
たっぷり話し合う時間はありそうだ。
2013.05.22