僕の前にセザンヌが姿を見せなくなって二週間と4日が経とうとしている。何所に絵を描きに行っても、どの店に寄っても会うことがない。
話によると、ピサロさんたちの前にはたびたび姿を見せているらしい。会った時はぴんぴんしてたみたいだし、体調を崩して寝込んでいるわけではないようだ。ちゃんと絵も描いているらしい。じゃあどこかで穴場を見つけたのだろうか。そういうことなのかもしれない。
でも、僕にだけ顔を見せないのはどういうことなのだろう。
避けられているというのはいくらなんでも考えすぎだろうか。
自分でもあまり考えたくはないが、セザンヌが何を考えてるかなんてわからないしもしかするとそういうこともあるかもしれない。
もちろんそれを「はいそうですか」と受け入れる気は更々ないが、意外にもセザンヌがいそうなところの見当がつかなかったから動こうにも動けない。自室やアトリエに居るときは居るだろうが、避けられているという前提で乗り込めるような場所では、ない。わがままだと自分でもわかっている。ああ、女々しいとも。
口に出すつもりはなかったため息が辺りを白く濁らせ、すぐに霧散してなくなった。
そういえば、最近筆を取っていない。僕も、モチーフを探さなくては。
家で唯ぼんやりとキャンバスを眺めていた。勿論そんなんでは絵のモチーフもセザンヌの件もどうにもならない。良い案が浮かぶわけがない。
一時間、二時間……どのくらいそうやってキャンバスと対峙していたか定かではないが、とにかく集中できないことをしていたって仕方ないからあきらめた。
今日はもう寝てやろうかとベッドに顔を埋めたところで、尋ね人がやってきた。
夜であることを考慮したような小さなノック音。辺りが静かだったから聞き逃さなかったものの、もしも物音が立つような状況だったら間違いなく気付かなかった。気付いてしまったものは仕方ないから、ベッドから身を起こして戸に向かう。
こんな時間に誰かと訝しく思う。もしかしたらセザンヌかも。と期待をかけて出てみると、知らない男が立っていた。草臥れた革の鞄を肩から掛けていた。なんだ、郵便屋か。
いや、何故郵便がわざわざ手元に届けられるんだ?
「何か?」
「お手紙です」
茶封筒に汚い紫で社名が印字された、趣味の悪いデザインをした封筒だった。何かのダイレクトメールか。
差し出された手紙には特別な表記はされていない。郵便受けくらいうちにだってある。
「郵便受けに入れたらいいじゃないか」
「それが一杯なんです」郵便受けを指されて思い出す。そういえば、最近チェックしてなかった。
「ああ、悪いね」
「いえ。それじゃあ、失礼します」
配達員が去っていったのを確認してから郵便受けの状態を確認しに行った。
ひどい有様だった。出来るだけ詰め込んだのだろう。封筒が汚く入っている。クレームの一つでもつけたくなるが僕が悪い。
手だけじゃ持ちきらないから、両腕に抱えて家に入った。卓に乱雑にぶちまけると、とりあえず仕分けを始めた。
画材屋からのポストカード、名前も知らない怪しい仕立て屋からのダイレクトメール、公共料金の明細、よく知っている筆跡の封筒。ん?
「要らない」ほうに仕分けた封筒を引き戻した。手書きの宛先。見覚えのある筆跡だった。
胸が高鳴った。仕分けなんて悠長なことしていられない。ペーパーナイフを探すのもじれったくて、手で思い切り口を破った。封筒には白い便箋が一枚。
土曜に私の家に来い。
あらゆる角度から嘗め回すように読み込んだが、その一文以外何も書かれていなかった。
捨てるように置いた封筒を今一度手に取って消印を確認した。消印は先週の木曜日。今日は金曜日。一週間と1日、過ぎている。どれだけ遅くても、きっと先週の土曜には僕の家に届けられていただろう。
まずい。怒ってるかもしれない。いや、セザンヌのことだから怒ってる。
どうしよう、と三度呟いたあと、覚悟が決まった。手紙とコートを持って家を飛び出した。避けられてるどころか呼び出されたのだから行くしかない。
もう夜遅い。セザンヌも家にいるだろう。
何のようだったか知らないが、わざわざ手紙を使って呼び出すくらいだからきっと大切なことなのだろう。……直接会いに来れば良いのに。
*
セザンヌと僕の家の距離は近いわけではない。近道を駆使して走りぬいて30分といったところだ。
加えてこの辺りは夜間になると街頭の明かりくらいしかなくなるから、土地勘のある大の男でもわざわざ歩いたりはしないようなところだった。加えて冬になると冷たい風が我が物顔で吹き荒れる。そんなところをコートを軽く羽織った程度の身なりで、大した貴重品も持っていないとはいえやってきたのは不自然だった。それは分かっている。
暗い中、不安に飲み込まれかけたことも何度かあるが、何とかたどり着いたセザンヌの住処の戸を叩いた。
出てきたのは予想通り眉間に皺を作った男だった。僕の姿を認め、不可解なのをアピールするように更に眉根を寄せた。
「何だこんな遅くに」
案の定セザンヌは怒っていた。声音で分かる。
「あの、この手紙」
言いかけて、背中から感じる冷気に身震いした。やはり身体に堪える。
「入れ」手紙を差し出していた手を引かれて中に入れられた。背後でドアを閉める音がする。乱暴だった。やっぱり、怒ってる。
「で、手紙がどうした。私が指定したのは土曜日だ。今日じゃない」
「悪かったよ。その……気付かなくて」
セザンヌがふんと鼻を鳴らした。なんだか惨めになってきて、顔を伏せてセザンヌの言葉を待った。
「……少し待っていろ。その辺のソファにでも」
言ったっきりセザンヌは別室に引っ込んだ。指定された二人がけのソファに大人しく腰掛けた。目の前のテーブルに雑誌が、僕から見て逆側に置かれていた。読んでいた途中なのか、広げて伏せてある。きっと向かいの椅子で読んでいたのだろう。用途不明な針もある。何だアレは。
「待たせたな」
セザンヌはカップと銀のピッチャーを一つだけ持ってやってきた。部屋に入ったときからコーヒーの香りがしていた。僕が来る前から淹れてたんだろう。
あまり詫びる気がなさそうなのが癪に障るが、待たせたのはむしろこっちなのだから、何も言う資格はない。
セザンヌは向かいの椅子に座ることなくこちらに来た。顎を一度動かし「詰めろ」という。どういうつもりか分からなかったが大人しく従った。
我が物顔で僕の横に落ち着いたセザンヌは優しくカップをテーブルに置いた。そしてピッチャーの中に入っていたものをその中に注ぎ始める。白いのが見えたからミルクだろう。何かを調整するように二、三度に分けてミルクを淹れ、納得したのかミルクの入ったピッチャーを置いた。やっと飲み始めるのかと思いきや、カップもソーサーに置いた。
「……何してんだ?」
「静かに」
制されて、見つめることしか出来ない。カップを傾けたり回してみたりしたかと思ったら、用途不明の針を手に取りそれをカップに浸した。真剣そのものの目をしている。
沈黙が流れる。部屋に入ったときの気まずさはないが、人の趣味の時間を害しているような気分になってきて居心地が悪い。
セザンヌが息をついた頃には、出来立て特有の湯気がコーヒーから消えていた。もう話してもいいだろうか。
「なあ」伺いを立てるように声を抑えてみた。
「ん」
呼びかけに応えたわけではなかった。セザンヌは僕のほうにカップを寄越してきた。「見てみろ」と促すので、大人しく覗き込んだ。
長い耳とぴんと張ったひげ。白い兎があった。
「な、」
「なかなか上手くいかないな」
「これ、何」
「ラテアートって知らないか?」
ほら、と雑誌を手元に引き寄せたセザンヌは目当てのページを探し、僕に見せる。ラテアートの特集。
知らないことはない。しかし、セザンヌが会得していたことは知らなかった。
「知り合いにこういうのが得意な奴がいてな」
そう話す声には抑揚がない。いつも通りのセザンヌだった。
「どうだ」
「すごい」
そんなことしか言えないのか。と嫌味を言われてしまうかもしれないと思ったけれど何も返ってこなかった。
もう少し眺めていたいが、これ以上眺めてセザンヌのコーヒーを冷ましてしまうのは謝りに来た僕の立場的に問題だ。ラテアートを崩さないように、ゆっくりセザンヌの方へと滑らせた。
「ありがとう」
「は?」眉間の皺が深くなった。
怒られるかと思って、反射的に滑らせた手を引っ込めた。
「ご、ごめん……」
「……貴様の物だ」
「は?」
予想外の返答が返ってきて頭が追いつかない。何でこれが僕のになるんだ。
「何でそんな」
「馬鹿か」
「そんなこと言われても」
「……今日は何日だ」今日?
「24日だ」
「12時過ぎたぞ。今日は、何月の、何日だ」
セザンヌの言葉に慌てて壁に掛けられた時計に目を向けた。12時6分。日付が変わっていた。
ああ。忘れてた。
「……2月、25日だ」
「おめでとう」
ありがとうと言うのが恥ずかしかった。
思うことはたくさんあるのに、俯いてしまい何も言えない。
静かに押し出されるカップが見えた。
「ほら、飲んでみてくれ」
静かに受け取って、眺めた。やっぱり勿体無い。
「……なんでこんなこと」
「こんなこと?」
「勿体無くて飲めない」
「……こういうの、嫌だったか?」
「……嫌いじゃない」
兎のひげがだんだん垂れてきていた。意を決してカップに口付け、啜ると柔らかい苦味が口を転がっていった。セザンヌが好きな苦さだ。ただ、僕には合わない。
「味はどうかね」
「……苦い」
「そうだろうな」
言ってから立ち上がって、戸棚を開けた。「これ食え」
カップを置いてから受け取ったのはカップケーキだった。個別包装。綺麗過ぎるくらい焦げ目がない。そのわりには硬そうだ。
「これも、お前が?」
「売り物に見えるかね?」
正直に首を横に振った。セザンヌがカップを破りながら口を歪めた。
僕もカップケーキを取り出して、セザンヌのように破ってみた。かぶりつくと、見た目よりも硬くはない。生クリーム系のくどい甘みが口の中で広がるがべた付きはしない。無糖コーヒーの口直し用に作ったとしか思えない出来だ。そしてその仕掛けどおり、兎のラテを一口啜った。総て計算なのだとしたら脱帽だ。
「……美味い」
「そうか」
その言葉の後にケーキにかぶりついたセザンヌはやはり顔をしかめた。奴の舌には甘すぎる。
「飲むか?」
言いながら差し出したコーヒーカップを押し戻された。中身が揺れた。
「要らん。それは貴様の、」
「僕の物なんだろ、じゃあ僕がどうしようと勝手だ」
「……なるほど」
口で負けたのが悔しいのか嬉しいのか分からない顔をしながらカップを受け取った。無糖カフェラテを涼しい顔をして啜るのだから理解できない。ミルクで割っているとしてもなかなか飲めないもののはずなのに。
「しかし、どうして金曜に来たんだ。私は土曜日に来いって書いたのに」
少し量の減ったカップをソーサーに戻してセザンヌは僕に問いかけた。
ああ、そういえば聞きたいことがあったんだ。
「あの手紙、何だったんだ」
「何って、そのままだよ。25日の土曜日に来いって」
「消印は先週の木曜だった」
「自分の誕生日が近いことくらい分かってると思ったから、まあ伝わるだろうと思ったんだが」
伝わらなかった。ごめん。
なんて言えない。
「……ずっと僕を避けてたのは?」
「避けてた?……ああ、言っただろう、修行だよ、これの」
セザンヌはコーヒーカップを持ち上げて僕に渡した。早く飲めと言っているのかもしれない。
「知り合いの家が遠かったから、向こうまで行ってしまうと丸一日、何も出来ないんだ。難しいから、何日も通ってしまった」
「でもピサロさんたちとは会ってたって」まさか二週間以上も毎日通っていたわけではないだろう。
「ああ、それは……いや」
「何だよ」
暫し睨んでみると、根負けしたようにセザンヌが息を吐いた。
「今日、昼過ぎに広場に行ってみろ。みんな祝ってくれるから」
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。
「……それ、今言ってよかったのか?」
「君が言わせたんだろう」
「でも、会ったときそんなこと言ってなかった」
「わざわざ言うわけないだろう。あくまでもサプライズだったんだから」
セザンヌがソファに背を預けて、天井を見つめた。つられて視線を上げるけれど何もない。
秘密を白状してしまった心境が何かを見せているのだろうか。申し訳ない。ピサロさんたちに会ったときは精一杯騙されよう。
とりあえず今度、みんなにお礼の気持ちを伝えよう。何てったって僕は画家だし、絵でも描くか。みんなの絵を描こう。皆を詰め込んだ、明るくて、愛らしい絵を描こう。
それがお礼になるのかわからないけれど。
「僕は幸せ者だな」
「今更知ったか」
額を指で小突かれた。その痛みで少し冷めた。このくらいが丁度良い。
・ラテアートできちゃうバリスタセザンヌ
・お互い片思いだと思ってるみたいな
・ルノワール聖誕祭^^
来年こそはセザンヌのお誕生日に間に合うように書きたいです。
2012.02.25