晴天を見上げる僕のこめかみから降りてきた一筋の汗が髭を伝う。
顎のところでその汗が伝う感覚がなくなった。髭に絡まったんだ。
湿気だけが顎に留まり、気分の悪い熱を生む。じとりじとりと、放出される。
そんなことがもう何回繰り返されたことだろう。
僕の顎周りは蒸れに蒸れて、奇妙な熱を放っている。あまりに気持ち悪くて腕で拭ったら、今度は腕にべたりと液体がついた。当たり前だけれど。
隣をみると、同じことを奴もハンカチでやっている。熱々の石畳の上に置かれたベンチに、暑苦しくないよううまく距離をあけて互いに腰掛けていたが、髭面のおっさん二人が同じタイミングで同じ動作をしていると思うと嫌な気分が胸からせりあがってきた。快適さのかけらもない。目まであわせてしまった。なぜか奴が目線を外さない。だから僕も外すタイミングがつかめなくて、結局見詰め合ってしまった。やめろ、暑苦しい。鬱陶しい。
また、こめかみから汗が伝った。セザンヌの視線がそちらに行った。見るな、暑い。その視線で焼けそうだ。いらいらする。いらいらすると余計奴を見てしまう。ああ。もう。
「…………」
「…………」
結局セザンヌから目を背けられずにいる。貧乏ゆすりまで始まった。セザンヌはセザンヌで手にしているハンカチで手遊びを始めた。
おそらくお互いにお互いから目を背けたいのだ。しかし出来ない。この気持ちはなんなのだろう。きっと暑い日に辛いものが食べたくなるあの現象と一緒なんだ。たぶん、そうだ。
今は辛いものなんて食べたくない。できるなら汗を止めてやりたい。キンキンに冷えたものが欲しい。体を内側から凍らせて、快適になりたい。そういえば、あのカフェのペリエ・モント、今はシロップ増量中だって。ああ、カフェに行きたい。涼しいカフェに行きたい。あそこのバイトの子がとってもかわいいんだ。さわやかで、快活で、見てるだけでも創作意欲がわいてくる。モデルを頼んだことだってあるくらいだ。そんな子の出してくれるペリエ・モントは、きっと格別だろうなあ。あそこは夜になると酒場にもなるらしいけど、今の僕の気分はカフェで炭酸を一気飲み、だ。
セザンヌもきっと同じ気持ちだろう。まず、ここから離れたい。
「……セザンヌ」
「……なんだ」
「……ここから離れたい」
行ってみたら「じゃああの店にでも行ってみるか」とか提案してくれるんじゃないかと思った。別にここにいる意味なんてないはずなんだから。セザンヌがここにしようと言ったからいるだけ。そうじゃなかったら誰が好き好んでこんなところにいるんだ。その証拠に、今ここには僕たち以外は誰もいない。
セザンヌの鼻の頭から汗が落ちた。セザンヌのハンカチがそれを上手く吸い取る。
「そうか」
セザンヌは短く返事して、ようやく僕から目を離した。僕の要望を聞く気はないようだ。この暑い中、脚まで組み始めた。ベンチに根付くように背中を預け、澄んだ青色をした空を仰いだ。
「なあ」再度呼びかけてみる。
「うるさい」突っぱねられた。
「こんな暑いところにいて、どうしようっていうんだ」
「ただいるだけさ」
「暑い中じっとしてなんかいられるか、サウナじゃないんだぞ」
「似たようなもんだ」
何なんだ。お前はいったい何と戦ってるんだ。こいつやっぱり馬鹿なんじゃないか。付き合ってられない。
(……そうだ、)
一人であの店に行けばいいじゃないか。別に、セザンヌは行きたくないなら行かなければいいんだ。
あの子に癒してもらおう。めんどくさい暑苦しい髭面なんてほっといて、かわいいフレッシュな女の子が出してくれる炭酸を飲みに行こう。そう決めると俄然やる気がわいてきた。僕は力強く石畳を踏みしめて立ち上がった。
「じゃあ僕はあの店に行ってくる。ここより天国だ」
歩き出す。じゃあな、と振りかけた手が、軽い音を発したことに驚いた。
手を掴まれた。セザンヌも立ち上がっている。
セザンヌは僕の手を離そうとはしない。ただじっと、僕の目を見て立つだけだ。
「な、なんだよ……」
肌と肌が触れる。暑い。互いの手が汗だくだったからそのせいもあるかも知れないがなんだか気持ちが悪い。離して欲しいのだが、訴えかけるような目をされては振り払うのも酷な気がして躊躇われた。けれど、さすがにちょっといらいらする。
「なんだってば!」
「……もう少しここにいろ」
「はあ?」
「……」
ようやく手を離してベンチに座りなおすセザンヌはまだ何か言いたげだった。俯く頬から悔しそうに汗が垂れる。奴のハンカチはそれを受けとめられなかった。
くそ、あの子のバイトの時間、あとちょっとで終わっちゃうじゃないか。カフェが酒場になってしまう。何をどうしてやればいいんだかわけがわからない。完全に行く気力を削がれてしまった。
「……何なんだよ」
「……貴様は何にもわかっちゃいない」
「わからないのはそっちだ、僕がどれだけ我慢してると思って……」
納得のいかないやりとりは体感温度を上げていく。今僕に温度計をさしたら水銀が破裂するだろう。いらいらさせやがって、馬鹿セザンヌ。
「それはこっちの台詞だ」
セザンヌが重く長くため息をつく。暑いんだから勘弁してくれ。
冷静な話し合いをするべきだ。くそ暑いのに熱くなって口喧嘩するなんて馬鹿だ。
わかっている。わかっているけれど、僕の感情は理性を許さない。
「なんだよお前、言いたいことがあるんならはっきりしろよ!」
暑いから仕方ない。セザンヌ相手だから仕方ない。
さっきから顔中から流れる汗が顎鬚に溜ってて不愉快だ。そろそろ飽和量を越えて雨みたいに落ちてくるんじゃないかと心配になる。
腕で顔中拭った。べたべただ。
不快さに負けて服で腕を拭った。衣擦れの音がはっきり聞こえる。この広場は静かだ。
「いかないでくれ」
思わずどきっとした。目を見開いてセザンヌを凝視してしまう。
奴は俯いていた。ちらりとのぞく首筋が汗で湿っていた。艶かしいと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしい。
「いかないでほしい。あの店に」
誠実な声をしていた。意図は見えないが少なくとも真剣であるのだろう。セザンヌの目も本気だった。じろりと見据えるようなあの目。見てられなくて思わず汗がついていた腕に目線を落とした。
「な……、何で?」
頭が回らない。暑いから。
飲みに行きたい。
「あの小娘、お前に馴れ馴れしいから」
はっとしてセザンヌを見る。悔しそうに眉を顰め、見るだけで目が焼けそうな石畳を見つめている。心なしか、その頬は赤い。「わかるだろう、もう」
だらりと汗が垂れた。セザンヌのものと僕のもの、同じタイミングで同じ軌道を辿って、同じように顎の茂みに吸い込まれた。
ああ、もう。本当に馬鹿な男だ。
「……じゃあここでなくてもいいだろ」
「ここならやることもないし、あまりに暑くて人も来ないから」
「だからなんだよ」
「何にもない方が、私と一緒にいてくれるだろう?」
「何も考えずに?」
セザンヌは汗だくのままひっそり笑いを浮かべる。ご明察。
なんか全てがどうでもよくなって、思わず僕も笑ってしまった。
「……馬鹿だなあ」
「貴様にだけは言われたくないがな。普通気付くだろ、あんなに贔屓にされていれば」
「モテる男は辛いなあ」
ふんと鼻を鳴らしながらセザンヌは広場の中央にある時計を見た。もうあの子のシフト時間は終わってる。惜しいことをした。まあしかたないけれど。
「そろそろ行こうか」
不意に立ち上がり僕の手を掴んだと思うと、セザンヌは言った。言いながら歩くものだから僕はよろけながらも歩き始める。
「どこに?」
「あの店」
「行くなって言ったくせに」
「これからは大人の時間だ」
「……なるほど」
酒場に向かう足は軽い。影も長くなってきた。大分日も傾いてきた。直に涼しくなるのだろう。
シャツが汗を吸ってなんだか重たい。何を飲もうかと喉を鳴らす。ああ、渇ききってるよちくしょう。
・やきもち
・汗だらだら
・暑苦しい
ルノワールに関しては余裕がないセザンヌおいしい。
ルノワールが若い子になびかないようにがんばるセザンヌとかかわいい。
セザンヌかわいい!
2011.08.08