どうも目が霞んで仕事にならない。そういう現象が起こったのには理由がある。
根を詰めすぎた、と言えば良いのだろうか。研究に熱中すると目が霞む癖があるのだ。
ひどいときはワトソン君が違う人に見えるくらいにひどい。
そして時にそれと重なるようにして幻聴とか聞こえてしまったりするから、現実とごっちゃにしてしまいワトソン君に怒られることもある。
今日はそれがきてしまったのだ。
どうしても原因がわからない問題にぶつかってしまって、ワトソン君を返してからも頑張っていたのだけれど、普段本棚があるところに大きな怪物を見て、それが奇妙に吼えるから、怖くなった。
それだけならまだ休憩すれば何とかなるのだけれど、それも出来なかった。
これしか出来ない自分がこれから逃げてどうするのだろう、と内側から呼びかけられたのだ。
逃げたら自分はどうなるのか。
その問いには内側の誰かは答えてくれなかったけれど、何となく分かっていたからそれからおおよそ四時間。
飲まず食わずで休憩も取らずに頑張った結果、やっぱり駄目だと匙を投げた。
「……ごめんね、こんな時間に」
ワトソン君のお家の玄関に立ち、「お邪魔します」の前に一言謝った。
寝る準備が整っていたらしく、初めて見るパジャマ姿のワトソン君は曖昧に笑い、何も言わずに、どうぞと奥に案内してくれた。
電気工、というイメージからは中々想像し難いほどにワトソン君の部屋は片付いていた。
一見して、あると分かるのはベッドと冷蔵庫と木製のテーブルセット。後はテーブルの向こうの窓の脇に置いてある、まだ何も咲いてない鉢植えくらいだ。若い男の子の部屋にしては落ち着きすぎた部屋だと思う。
ワトソン君は私をテーブルに添えられた椅子に座らせてキッチンに引っ込んだ。ちょっと待っててくださいね、と口添えされては動くに動けない。
何にも持たずに来たので手持ち無沙汰だ。それに人様の家をじろじろと物色するわけにもいかず、目もどこに合わせたら良いかわからない。とりあえず隣に置かれていた鉢植えの中身を覗き込んでみた。鉢も中身も乾いた土色で植物は見られない。ひょっとしたらまだ種が発芽していないだけなのかもしれないけれど、放置されているそれはなんだか可哀相だった。
「お待たせしました」
鉢とのにらめっこをやめて声のしたほうを振り向くと、ちょうどワトソン君が私の向かい側に座るところだった。
その手には二つのマグカップ。気を遣わせたみたいで急に申し訳なくなって、小さな声でごめんと呟いた。
「良いんですよ、どちらにしても飲む気でいましたから」
ワトソン君が言いながらカップをこちらに押し出すと、白い中身が波立った。同時に柔らかい湯気と香りが私の頬を撫でるように立ち上った。ワトソン君はそれを柔らかい笑顔で見守りながら言った。
「毎晩飲むんです」
ホットミルクからの湯気が頬にかかった瞬間、安心したように肩の力が抜けた。ここにはさっきの怪物も、わけのわからない回路もない。逃げてしまったのは未だに引っかかるけれど、どうしても今はここにいたいという衝動に駆られた。
背を丸めて、肘から下を机につけて、頭も乗せて、意地でもここから出て行かないぞという気持ちで窓の外を見つめた。窓の向こうの月より先に、やっぱり鉢植えと目が合った。
現実を思い出し向かい側の青年を見ると、私の行動が愉快だというように笑っていた。
「どうぞ召し上がれ。味は保障しませんけど」
ワトソン君はホットミルクを啜ると、顔の筋肉が全部緩んだように微笑んだ。彼に倣って一口啜ってみた。蜂蜜の甘さが口に残った。多すぎず、くどくもない。
熱いミルクは食道を通って胃に入り、内側からお腹を温めてくれた。優しい熱に、私はワトソン君につられるように笑った。
「……おいしいね」
「よかった。お口にあったみたいで」
「うん、嫌いじゃない」
「素直に好きって言ってくださいよ」
「……じゃあ、好きだよ」
ワトソン君は一瞬面食らったような表情をしたあとに、最上の笑顔を見せて呟いた。
「僕も好きですよ」
その声がどこか切なげで、でもひたすら綺麗な響きで、何故だか無性に泣きたくなった。
2010.04.09
2012.01.30 加筆・修正。