私は人付き合いが苦手で、他人の感情や感傷を推し量るということが出来ない人間だ。
それは間違いなく私の短所であるのだが、この年に達してしまってはそれを治すことなど困難だろう。だから、きっとずっと、このままぎこちなく、人と人とのふれあいを楽しみもしないまま、絵を描くことだけを愛して死んでいくのだろう。
人間として一人ぼっちでも、画家として名を上げられればそれでいい。売れるのは私だけで充分だ。別に一人で生きていけないなんてことはないのだから、それでいい。
とりとめのない話題の中でそんなことを思ってルノワール君にぶつけた。
そうしたら、この有様だ。
彼の眦から零れた涙が彼の髭と顎を経由して、私のアトリエの床に落ちて飛び散った。綺麗に花弁の様に拡がったそれが妙に印象的で、それを凝視してしまった。そんなものよりも問題なことが私の目の前にあるのにも関わらずだ。やはり私は人よりも物の方が好きらしい。私は何故彼が泣いているか推察する前に、涙の形に心を惹かれてしまったのだから。
我に返った途端、人としての自分を恥じた。
「どうしたんだ、急に」
ルノワール君は私を一瞥して、悔しそうにまた一つ涙を流した。
取ってつけたような台詞で労わってやることしか出来ない自分が情けない。しかし分からないものは分からないのだ。どう行動したら良いのか、何をしてやれば良いのかわからない。どうしてやれば、彼にとって最良なのだろう。
すまない、と謝れば良いのか。
一人きりにしてやれば良いのか。
近寄って肩を抱いてやれば良いのか。
選択肢は無限にある。しかしどれも行使できない。私がルノワール君の気持ちを推し量れないからだ。
どうしても彼の気持ちが分からないのだ。ただでさえそういうことは苦手なのに、泣いているという事実に面食らって思考が働かないのだ。心だけが急いている。ざわめいている。
こんな風に心が落ち着かないのは初めてだった。子どもの頃に近所の女の子を泣かせたときでさえこんなに慌てやしなかったのに。これはスケールも種類も違う。この気持ちは何なのだろう。
大きな罪悪感、という表し方も的確ではない。もっと利己的な気持ちだ。でもそれを上手く例えられる言葉が見つからない。度忘れしてしまったときのあの感覚によく似たもどかしさが気持ち悪い。
涙を流し続けるルノワール君をただ眺めるしか出来ないもどかしさが虫唾となって私の背中を走り抜けた。八方塞がりの状況下で、私も泣きたくなってくるが、共倒れなどはまっぴらなので唇を一度噛み締めた。
一つ波を越えてまた口を開く決心が付いた。
「……何か気に障ることを言ったのならすまない」
思いのほか小さな声だった。焦りを知らないような声をしている。心とは真逆の声。
「……っ、そういう、ところがっ!」
僕を泣かせてんだよ!とわけの分からない返事が涙声で帰ってきた。まさか返事が返ってくるとは思っていなくて頭を上げると、激昂したルノワール君が卓の林檎を掴んで大きく腕を振っていたところだった。目が合った。
ぶつけるつもりかもしれないと、反射的にきつく目を瞑った。
暗闇の中で、激しく腕を振り切る音がした。
体に痛みはなかった。その代わりに何かが潰れる音が聞こえたので思い切って目を開けてみた。
林檎は悲惨な有様だった。
床と接触しているところは大きく欠け、その欠けている分の実は虚しく床に細々転がっている。林檎の蜜がぬらぬらと床を濡らしていた。荒々しい事後を思い浮かべて、不謹慎だなと取り消した。
ルノワール君はそれで興奮が一区切り付いたのか、肩で息をしていただけだった。もう涙は出ていない。今の彼なら少しは話しも出来るだろうと思い、また口を開く。
「……落ち着いたところすまんが、私が何をしたっていうんだ」
あまりにも無遠慮だっただろうか。
そう後悔したときには既に遅く、ルノワール君は悔しそうに、或いは悲しそうに近くの椅子にへたり込んでうなだれた。「嫌いだ、お前なんて」
意外にも、傷ついている自分がいる。
「……私も私が嫌いだよ」
ちくりと心を刺したのが、先ほどの彼の言葉か自分の言葉か分からない。溜息を零したルノワール君は、呆れ果てたように見えた。また胸が痛んだ。
「……そういうとこが嫌いなんだよ」
床に落とすように言われた言葉は、林檎を床に叩き付けた際の怒号よりも深くしつこく私の胸を抉った。自分の何が嫌われているのか分からなくて胸が押しつぶされそうだった。
不条理にも感じる彼の「嫌い」という言葉に逐一反応しては、勝手に傷つく私の心。
床に転がる羽目になってしまった林檎に、何故だかひどく共感した。
・セザ→ルノ
・厨二セザンヌ
・人としてだめなセザンヌ。
この後(数週間後とか)に告白合戦とかしないかな^^^^
10.03.26
12.01.30 加筆・修正。